世界的冒険家の植村直己 (うえむらなおみ) 氏の記録。なんてたぎる本なんだ。
- なぜこうしたことを一人でやるのか、私には分からない。人から問われるまでもなく、自分でも分からないのである。ただ無性にやりたい、それだけだ
- 死に局面すると、日頃表に出ないない利己的な部分が現れる。家族に思えた犬ぞりの犬も、食糧欠乏に陥ると、自身の食糧に見えた
- 皆が一生懸命に追っている夢。私の場合はその対象が身近になかっただけのこと
- エベレスト厳冬期、 正式には 12 月、 1 月をさす
- 北極点旅行で酷寒を経験してから、エベレストは冬しかないと考えるようになる
- 39 歳でも、精神、肉体年齢とも 20 代だと思っている
- 私はエベレストに向かい、こう叫んでいた。「オレは 10 年前より若くなったぞ!」
- 鼓舞するだけではなく、年齢を忘れたい、という気持ちが言葉になったのだと思う。あとがきより
- よし、それなろ北から南に歩いてやれ!
- 冒険: 北から南に歩いてやれ!
- 日本縦断徒歩旅行へ。3,000km を 52 日間で踏破
- 南極いこうとしても犬ぞりができないとだめ、なにくそ!とグリーランド北部のエスキモー村で生活を送り、犬ぞりを習得
- しかし、南極条約の壁は厚く、科学的菜ものでなければ入ることがてきなかった。個人旅行はできず、夢破れた
- 公子夫人「 今では南極はもう “夢” でいい。男には叶えられない夢が一つぐらいあってもいいだろう。なんて言ってます」
- 私は冒険家にとって、旅を続ける者にとって一番大事なのは、一つの旅が終わったとき、次の旅へ緊張感を持ち続けることだ、と思っている
- 北極点で、自分の位置を知るには六分儀しかない
- 冒険家から探検家へ
- 西堀栄三郎「なにしろ自分の今いる場所を見つけていくんだから」
- 冒険哲学というか信条は、”冒険、それはまず生きて帰ることだ”
- 過去の経験は技術。準備がすべて
- ノーベル平和賞を受賞したナンセンの極地行の影響力
- NASA のニンバス6号で位置を把握
- 王さんも後援会へ入会
- ヤパニ・エスキモー … 日本のエスキモー
- 自分の体を極地用に改造しなければならない。凍傷にやられる限界まで素手を凍気にさらし、耐えられなくなったら温め、再び時に凍気に素手をさらす。この動作を繰り返していくうちに、私の肉体は “極地人” と化していくのだ
- 旅の途中で子犬生まれる
- エスキモー犬も高山病
- 探検家として一番興奮したのは、グリーンランド最北端部を通過中、地図に誤りを発見したときだ
- きっかけは小林
- 単独行を求めたのは、喜びを最大限享受したかったため
- 鍋を持っていくくらいなら、食料を1日ぶん余分に持っていく
- 処女峰たまらんちん!
- アマゾンで危険なほど決心が固まっていく
- 月光は河面を白く照らし、ランプなしで十分。日記が書けるほどだった
- やはり蚊の大群がうざくて不眠になるが、次第に慣れる
- 盗賊との遭遇で、「私は自然の猛威は別として、他の難関にはひるむことなく、まず立ち向かってみることだ」ということを学んだ気がした
- 河幅が広すぎると自分が流れているのか止まっているのかわけがわからなくなる。対処として、河の水の色を確認する。褐色だと流れている証拠。透明だと湖などに迷い込んだ証拠
- 持論「見えをはったり、かっこうをつけていたら、冒険旅行どころか、世界旅行はできない」
- マッキンリーは単独行は禁止されている。書類上では、少し遅れて入山する米国チームの一員として、単独登頂を認めてもらう
- マッキンリーの帰り葉寝そべってすべる。登りに 6 時間を要した道のりを 15 分で滑り降りた
- 氷原の一日は、まず一杯の紅茶から始まる。一杯の紅茶でその日の体調がわかる (疲れていると甘さを感じない)、健康のバロメーター
- 北極にも野良犬がいる!
- エサを与え、ソリの一員にスカウトする
- セイウチの胃袋は天然のスープ。そのまま煮て食べれる。セイウチの動脈はイカぽくてうまい!
- アパリアスはタモぶんぶんしていれば簡単に捕まえれら
- ナーヤは死骸をほうれば、仲間が集まり一網打尽できる。こっけいな鳥だ
- 冒険: アンナ
- 純粋なエスキモー犬 “ハスキー”
- 冒険人生は物質的に何も生まない。精神的な満足感だけである
- 地上でがっと稼いで、資金をためて山へ。これが植村直己の経済学だ
- 印税などでも、稼いだ金をドカーンとかけて。これが経済学だ。金はためるものではなく使うもの。使って自分に精神的強迫をかけるものなのだ
- スポンサーがいて引くに引けない状況がプラスに働いたこともある
- ビンソン・マシフ登頂したら) どんな生活が待ちうけているのか、いまの私にはわからない。ただ一つ確実に言えることは、いつもなにかを求めながら生きているはずだ。なにごとに対しても意欲を失っては、生きている意味がない、人間でなくなってしまう、と思うからだ